かつて日本では1000を超える麻の農家があったと言われています。
しかし戦後、化学繊維の普及とともに天然繊維の需要は低下し、同時に麻を栽培する農家も減少していきました。
一方で、時代は変化し、脱炭素やSDGsという世界の潮流にあって、今再び「麻」という植物が世界から注目を集めています。
どのようにして麻製品は作られるのか。
持続可能な社会を実現するうえで麻はどんな可能性を秘めているのか。
今回は栃木県鹿沼市で400年の歴史を持つ麻農家「野州麻紙工房」にお邪魔させて頂きました。
ヘンプクリートハウス
日本で初めて建てられたヘンプクリートハウス。
コロナとかウクライナ戦争のような事態になるだけで、日本という国は資材が手に入らなくなります。
そうなると、みんな慌てて材木を切り出したりすることになります。
ただ、材木は木が育つのに20~30年待つ必要があります。
そこで、110~120日くらいで麻を部分的にでも取り入れることができれば安定感が出ます。
麻炭
麻炭は花火の原料に使われたりします。
元々は1軒の花火屋さんで2トンとか3トンとか使われていましたが、いまは栽培農家が減り、花火の原料が全然足りていないみたいです。
花火の原料となる麻炭を焼いているのは今はこの農家しかありません。
麻炭には表面に目に見えないくらいの穴が無数に空いていて、強度はないけれど、とても軽い炭です。
尺玉のような大きなものを夜空に打ち上げるには、花火玉自体が軽い方がいいので、麻炭がとても向いているんです。
なおかつ空気も含んでいるので、起爆力もあります。
精麻
収穫したものはその日のうちに納屋の2階に保管をしておきます。
そして保管しておいたものを、発酵しやすいサイズに束ねなおします。
発酵しやすいサイズにする必要があるからです。
これを「水束づくり」と呼びます。
ここは、束にしたものを発酵させる場所です。
さきほど水束に束ねたものを、オブネの水の中に浸します。
夏場だと温かくて発酵も進みやすいので、3日ほどで発酵が終わります。
冬になって外気温が落ちてきたら少し加温をしたりする必要があります。
ただ基本的には菌の力だけでお風呂くらいの温度、38~42℃くらいになります。
発酵が進むと、上から下まできれいに表皮を剥くことができます。
そして発酵した麻の表面を剥いで、表皮と麻ガラに分けます。
ちなみに残った麻ガラは、ヘンプクリートになったり、あるいはお盆のときの迎え火・送り火のときにナスやキュウリに割り箸をさしたりすると思うのですが、本来は割り箸ではなく麻ガラを使っていたりしました。
表皮のカスを削り取り繊維を取り出す作業「麻ひき・アサヒキ」です
数本分の表皮だったものが、ここで互いにくっつき1枚の精麻となります。
また、この時に出る表皮のカスは麻紙の原料の一部になります。
取り出された精麻を「麻掛け竿・オカケザオ」に1枚ごとに風を通しながら掛けて日陰で3~4日間ほど乾燥させます。
これを精麻干し(セイマボシ)と呼ぶそうです。
乾燥したら、上・神麻・特等に品質分けがされ、精麻として1㎏ほどの量に束ねられ、出荷されます。
インタビュー
日本と麻の歴史
最近はヘンプが注目されるようになって、国内でも海外の情報がよく発信されたりしていますが、海外の人に言わせると、日本と麻の歴史を紐解く方がよほど価値があるんです。
日本の生活に深く根差しているし、伝統や宗教との繋がりも深いからです。
冠婚葬祭もそうですし、剣道・柔道・弓道など、「道」のつくものには必ず麻が使われていたりします。
神社にお参りにいって鈴のついた縄を揺らすと思いますが、あの縄も大麻の繊維で出来ています。
アニメ・鬼滅の刃の「ねづこ柄」も、麻の葉を真上から見た模様だったりします。
栃木と麻の歴史
このエリアでは380~400年くらい前から麻の栽培が行われています。
そして私の農家に関しては、私で8代目になります。
この周辺の農家はほとんど8~9代目くらいで、そういった農家が13軒くらいあります。
足尾山山麓の南側一帯で栽培される「野州麻」というブランドになります。
昭和初期のころにはこの辺でも何千軒と麻農家があったのですが、化学繊維の普及があったりして減少していきました。
今でもこうして農家が残っているのは「地の利」が大きくて、見て頂ければわかる通り、山に囲まれています。
麻といえばどこでも育つイメージもあるかもしれませんが、綺麗な精麻とか上質な繊維を作ろうと思ったら、風害が少ないエリアに限られてきます。
こういう山深いところだと、台風がきてもそこまで風が入ってきません。
なので、やはりこのエリアで麻栽培が残り続けているのは地の利によるところが大きいです。
THCについて
日本で栽培されてきたのは主に「繊維型」の品種になるので、THCの成分はほとんど0%、含まれていてもごく微量です。
白木という品種に、九州で発見された全くTHCの含まれていない在来種をかけあわせてできたのが「トチギシロ」という品種です。
麻とサステナビリティ
収穫した麻のすべてを余すことなく活用できます。
洋服の繊維にもなるし、繊維をとったあとの苧殻も建材として活用できる。
なおかつ、毎年110日で育つというのがとてもサステナブルです。
木材だと20~25年育てて、切ってしまったら、また同じ年月をかけて育てる必要があります。
麻ならすぐに育つし、すべてを活用できるので、環境に大きな負荷がかかりません。
栽培にあたっても、農薬や殺虫剤、殺菌剤は必要ありません。
麻は草よりも早く育つため、麻が陰になって草は枯れてしまうので、除草剤も必要ありません。
麻が持つ力
麻には抗菌効果や防臭効果など様々な効果があることが数値として分かってきています。
昔の日本人はそんな数値のことなど知らなかったはずなのに、有用なものであることは分かって使っていたんですよね。
昔はすべての人が自然と隣り合せの生活をしていましたから、常にばい菌も身近な存在でしたが、そんなときに抗菌効果のある麻の服を着る、ということを自然に選択をしていた。
八ッ場ダムの下流で土石流があったのですが、昔の住居が土石流でそのまま流されてきたんです。
で、その住居には、断熱材として麻が使われていたことが分かったんです。
壁の中や床下に苧殻を敷いていたりしたのです。
お城のような貴重な建造物であればまた違うかもしれませんが、一般の人が生活する住居というのは建て替え続けていくので、昔の状態が残ることはありません。
なので、不幸な出来事ではありますが、土石流によって当時の建物が化石のように残っていて、このような貴重な発見に至りました。
「もしかしたら麻を断熱材を使っていたかもしれない」という推測でしかありませんでしたが、その裏付けとなりました。
いずれにしても、昔から日本人は麻という植物を自然と活用してきたのです。
物がない時代に、明日、一週間後、一か月後を生き抜かなければならないとなったとき、成長の早い植物はとてもありがたいです。
ある程度まとまった量がとれて、洋服にもなるし、魚を獲ろうと思ったら網や釣糸が作れるし、麻の実自体が食べ物にもなる。
世界に比べて大麻の規制緩和が遅れている理由
政治的な問題もあるでしょうけど、商品を買う人たちの選択というのが大きいと思います。
消費者が必要としてくれなければ、作る側もさらに良いものを作ることはできません。
ただ、コロナ禍などを通して、日本人も考え方が変わった部分はあると思います。
サステナビリティへの関心が高まりつつあります。
もちろん不幸な出来事ではあったのですが、同時にポジティブな変化もあった気がします。
限られた地域でしか栽培されていない理由
麻の栽培は各県知事が最終的に許可を出します。
なので、県によってガイドラインが違います。
最近は少ないですが、回覧板で免許の申請が回ってくるという時代がありました。
申請書すらない県もありますし、そもそも栽培させないという県もあります。
というわけで、麻の農家を始めるのにハードルが高かったというのが大きいです。
ただご存知の通り、国内での大麻への評価も変わりつつあるので、今後はガイドラインが変わっていったり、免許も取りやすくなっていくことを期待しています。
よく「13軒しかないから独占できていいよね」といわれることがあります。
しかし、農家が減少したことで、流通が崩壊してしまいました。
私が就農したばかりのころも、問屋さんとか仲買人さんがどんどん減っていたので、自分で精麻をもって売るところから始めました。
一度変わってしまったものを戻すのはとても難しいです。
「最近はビニールのモノにしてしまったからねー」
と言われたら、麻に戻してもらうことは難しいです。
ただ、サステナビリティという時代の流れもあり、化学繊維や代替品を使ってみたけど、やっぱり本物の麻が良いという声も徐々に聞くようになりました。
逆に言えば、麻という素材は、こういう時代に対応できる植物だったということですよね。
最近は無理やり「環境に良いプラスチック」みたいなものを無理に作ろうとする流れもあったりしますが、本来はそこまで無理をしないでも麻を使えば自然にサステナブルになるのになと思います。
大麻の呼び方の違い
産地とか時代によって変わってくるのだと思います。
アサと呼ぶところもあるし、もちろんタイマと呼ぶこともあるし、オオアサと呼ぶところもある。
例えばこの辺りだと麻のことを「オ」と呼んだりすることもあります。
「オガラ」とか「オブネ」とかがそうですね。
どれが正しいというのはないのかもしれません。
なぜ大麻の農家を継ぐことになったのか
20年前に私の父が麻の農家をやっていたころは、もう麻の農家もだいぶ減っていて、周りも後継ぎがいない農家ばかりでした。
私自身はものづくりが好きだったので、デザイン系の学校を出て、そしてものづくりの会社に入りました。
その会社は、デザイン・設計・製造を1ヶ月サイクルくらいで行う会社だったのですが、毎回違ったものをつくれる楽しさはあったのですが、素材を十分に理解する前に変わってしまうし、産廃も沢山出てしまう。
私は次第に「素材からものづくりをする」ことに興味が出てきました。
そして私の家がやっていた麻の農家なら、種からものづくりに携わることができます。
というわけで、実家に帰り就農することを決意しました。
最初は父から「帰ってくるのはいいけど食べていくのは大変」だといわれましたが、反対を押し切って無理やり戻って農業を始めることになりました。
ただ自分はやはりものづくりが好きだったので、麻の栽培をしながらも、ものづくりをしていくことを決めました。
最初は織物をつくろうかなと思ったのですが、タンスにしまわれる時間が長いですよね、それも一つの価値ではあるのですが。
もっと身近に使われるものがいいなと考えて、紙を作ることにしました。
そして今では紙にとどまらず、あらゆる麻の可能性を追求しています。
仕事という感覚よりかは、子どもの実験に近いですかね。
さいごに
取材をする中で大森さんが
「海外の人に言わせると、日本人こそもっと日本と麻の歴史について知るべき」
という話がとても印象的でした。
私自身、大麻について調べようとすると、日本語でたどれる情報源には限界があるんですよね。
なので、ヘンプについてのサステナビリティについて調べるときはいつも海外サイトを翻訳しながら調べていました。
これだけ日本で麻の農家が減少しているうえ、アンタッチャブルな扱いを受けてきた植物ですから、当然といえば当然なのかもしれません。
その一方で、化学繊維や法規制といった逆風がありながらも、着実に伝統を紡いできた農家の存在を肌で感じられたのも貴重な経験でした。
麻は日本の歴史や文化と非常に密接に結びついてきた植物。
であると同時に、日本で初めて作られたヘンプクリートハウスなんかは、サステナブルな社会の実現に貢献しうる未来の植物。
野州麻紙工房は、まさに過去と未来が交差する空間でした。
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