美術館で気候変動を訴える行動について思うこと

ここ最近、環境活動家が美術館で抗議活動を行うというニュースをよく見かける。

つい先日もスウェーデンでモネの絵画に赤い塗料が塗られる事案が発生した。

このニュースについてどう思うか、Instagramでフォロワーの皆さんに意見を伺ったところ様々な意見が寄せられた。

ちなみに、私が気になっているのは

「そのアクションは効果的なのかどうか?」

という一点だけだ。

倫理で議論するのは難しい

個人的には「倫理的にどうか」で議論するのは難しいと思っている。

たとえば夏目漱石の「三四郎」という小説には列車の窓から弁当箱を盛大に投げ捨てる場面がある。

明治時代においてポイ捨てはそんなに悪い行動だと思われていなかった。

だが、令和のいまそれをやったら確実にヤバイ人だ。

倫理なんて住む国によって異なるし、時代によっても変わってくる。

また、価値観的なもので議論するのも難しい。

モネの絵画より、自分の子どもが描いてくれた絵の方が価値がある、なんて人は大勢いる。

その価値観はだれにも否定することはできない。

あるいは、その過激な行動は暴力だったのか、正義だったのかも時代によって解釈が変わってくる。

明治維新を「テロ行為」だと思う人もいれば「近代化に成功した改革だ」と捉える人もいる。

さらに言うと「法的にどうか」で議論するのも、なかなか難しい。

例えばアメリカでは禁酒法が導入された1920年から10年間はお酒が違法なものとして扱われていた。

この10年間だけはお酒が人類にとって悪影響をもたらすものだと科学的に証明されたから法律が施行されたのか?

逆に合法的にお酒が飲める現在では、お酒が人類にとって全く悪影響を及ぼさないことが科学的に認められたから合法なのか?

いや、どちらも違うだろう。

法律というもの、意外と物事を測る尺度にはなりづらい。

このように、倫理とか価値観とか正義とか法律っていうやつは何気にフワッとしているものなのだ。

こうした「個人の主観」的なもので議論をしてしまうと話はいつまでも平行線のままだ。

「行動の有効性」で議論すべき

なので話し合うべきなのは「その行動の有効性」だと私は思っているわけだ。

なぜなら「その行動が有効だったのかどうか」は「客観的に検証可能」だからだ。

  • そのアクションには何社くらいの企業が賛同してくれた?
  • 何人くらいの政治家が協力者になってくれそう?

といった行動の結果を数字で検証することが可能だ。

自分たちが計画した目標数値を超えていれば有効だったわけだし、下回っているのなら戦略を変更する必要がある。

大胆な行動なのか?穏やかな話し合いなのか?

というのは「問題解決のスピード」には一切関係ない。

一日でも早く気候変動を止めるのに必要なのは「有効な戦略」だけだ。

気候変動に有効なのは?

少なくともサステラのフォロワーさんたちは、絵画を傷つける行動に賛成の人も、反対の人も、みんなが目指している「気候変動を防ぎたい」というゴールは同じなわけだ。

「絵画を傷つけることに賛成・反対」=「気候変動を防ぐことに賛成・反対」

ではない、というところをまずは出発点にしたい。

ただでさえ気候変動に関心を持っている人たちは社会の中でも少数派、マイノリティなのだ。

ここで仲違いすることは、気候変動を防ぐことから遠ざかるだけである。

なので議論すべきは「一刻もはやく気候変動を防ぐために有効な戦術なのか?」だ。

一刻も早く気候変動問題を解決へと近づけるには「気候変動対策への”参加者を増やす”」ことがほぼ不可欠である。

なぜなら今すぐにでも地球全体のCO2排出量を減らす必要があるからだ。

こうしている間にも地球は温暖化していて、温暖化が気候変動をもたらしている。

そして気候変動を防ぐためにはカーボンニュートラルな状態を目指す必要があって、一軒でも多く自宅の電気を再エネに切り替える家庭が増え、一台でも多くガソリン車を減らすことが求められている。

そして「参加者」とは、「生活者」だけではなく「国」「団体」「企業」も含まれる。

火力発電やガソリン車をどれくらいのペースで下げていくのか?

中国やインドは協力してくれるか?

気候変動は一部の熱心な生活者だけでどうにかなる問題ではない。

で、私が気になるのは、とにもかくにも

「芸術作品を傷つけることで、気候変動を防ぎたいと思う人の数はどれくらい増減しそうなの?」
「そのアクションを続けることで、国・団体・企業は行動を変えてくれる算段はあるの?」

ということだけだ。

問題解決のために有効に働いているのなら、たとえいま批判的な声が多かったとしても、後の世界がその正しさを証明してくれるだろう。

もし有効に働いていないのなら、仲間たちの声に耳を傾け、戦略や戦術を見直す必要があると思うわけだ。

私の個人的感情について

ところで「客観的な議論をしよう」という意見は、一見すると中立的で、理性的で、大人びたセリフだ。

一方で、自分の感情とか本音を打ち明けることや、人から反対意見をぶつけられるから逃げている側面もあり、そこはかとない「ダサさ」もあるなと私は思う。

というわけで、私も自分の感情をこの記事でひっそり吐露しておくことにする。

美術館での抗議活動について、私の本音を控えめに言うと

マジでやめろ

と思ってる。

実は以前、サステラコミュニティに参加している女性から

「私の旦那さんは気候変動に否定的だから、サステラコミュニティに所属していることを良く思っていなかった」
「でも、サステラの発信とかコミュニティの活動内容を熱心に説明して、だんだん変な組織じゃないことを理解してくれるようになった」

といったことを言われたことがある。

皆さんはこの女性の旦那さんをどう評価されるだろうか?

変な人だろうか?頭の固い人だろうか?偏った考えだろうか?

いや、ごくごく平均的な日本人の感覚だろう、と私は思っている。

大抵の人は、政治とか社会問題に対して「明確にこれ」という確固たる意見は持っていない。

そこにあるのは「よく知らないモノへの警戒心」だけだ。

だからこそ、大多数の人間は「気候変動に関心を持てる人」「気候変動に否定的な意見を抱く人」どちらにもなりうる可能性を秘めている。

そして美術館での抗議活動はきっと、多くの「無関心層」を「否定派」にさせてしまった可能性がある、と私は感じている。

もしかしたら今後「サステラコミュニティに入ってる」と言ったら「絵画を汚したりする人たちじゃないよね?」なんて警戒されるコミュニティメンバーがいないか心配だ。

ただでさえサステラのフォロワーのほとんどが「気候変動」に関心がある人たちなのに、頂いたメッセージの8割近くは美術館での抗議活動について否定的な意見が占めていた。

無関心層がどんな印象を抱くのかは火を見るよりも明らかだ。

私たちは少しでも「サステナブル」というものを、オシャレで楽しいものだと思って欲しいと思い活動している。

これはきれいごとでもなんでもなく、無関心層を一人でも減らすため、気候変動を防ぐために、大真面目に必要なアプローチだと思っている。

危機感をあおったり、声を荒げたり、派手なパフォーマンスをすれば気候変動対策に参加する人の数は増えるのだろうか?気候変動を防ぐ時間を早められるのだろうか?

いや、問題解決に必要なのは「戦略」だけだ。

普段は「戦争反対」「武器はいらない」「外交で解決を」なんて言っている人たちが、こと気候変動については「話し合いでは間に合わない」「過激な行動も必要だ」などと言っているのを見ると、複雑な気持ちになる。

もちろん、彼らの具体的な戦略については知らないし、実際どれくらいの人が関心を持ち、どれくらいの人が否定派に回ったのか、その正確な人数も分からない。

なのでこれは、私の個人的な感情として捉えて頂ければ幸いだ。

そしてこうした個人的感情が、根本的な問題解決に繋がらないこともよく分かっている。

なので私の感情を吐き出すのはここで終わりにしたい。

さいごに

相変わらず私サステラが目指すべきは

「無関心な人を一人でも減らす」
「社会問題への参加者を一人でも増やす」

であることには変わりがない。

そして、同じくサステナビリティに関心がある仲間たちと、これからもパートナーシップを維持することも重要だ。

何度でもいうが、私たちはマイノリティなのだ。

少数派は固まってこそ力を持つ。

小さな考え方の違いは一旦横に置いて、より大きな課題を解決するため力を合わせていきたい。

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