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暴力に対する評価とコミュニティとしての宗教の役割について

2022年7月に日本の元首相が銃撃事件により亡くなる事件が起きました。

Instagramで選挙に関する投稿を作っている最中だった私にとってまさに青天の霹靂でありました。

そして、何も考えがまとまっていないままInstagramで「暴力反対」を表明しました。

しかし事件の全貌が少しずつ明らかになるにつれて、自分の中で

「あの事件を単なる暴力として片付けていいのだろうか」

という葛藤がありました。

また、日本における宗教のあり方や、今回の事件を社会がどのように受け止め、どのように生かしていくべきなのか、色々と考える部分もありました。

そのあたり私の考えをまとめてみました。

目次

暴力が正義か悪か

その暴力が正義なのか悪なのかは住んでいる国や生きている時代によって変わってくる気がします。

例えば香港の民主化運動で、学生たちは石やレンガを投げたりして、ときには暴力的な手段で抗議活動を行いました。

彼らの運動に対して

「暴力ではなく民主的な手続きで訴えるべき」

と評価することもできますが、それは選挙による民主的な手続きができる国に住んでいる人たちのロジックです。

香港はそもそも中国本土の人たちが政治のトップにいるので、法的手続きを踏んだところで民主化は実現できません。

つまり香港で民主化運動を率いた学生たちにとって、あの抗議活動は紛れもなく正義だったわけです。

(もちろん抗議活動をしている人たちの考えにもグラデーションはあると思いますが。)

そして同じく民主主義国家、自由主義国家に住む日本人も、学生たちの活動を正義と見なした人は少なくないはずです。

あるいは日本で150年以上前に起こった明治維新に目を向けてみると

「日本は明治維新によって江戸幕府を倒し、近代化に成功した。」

というのが、日本史を学ぶときの現代の一般的な評価ではないでしょうか。

でも、倒幕運動は果たして民主的な手続きに基づく平和的な運動だったのでしょうか?

人によっては、政権転覆を行ったテロやクーデターだという評価をすることもできるでしょう。

フランス革命とかも同様です。

その暴力が正義なのか悪なのか、その解釈は時代によって変わってくるのです。

いつの時代も勝者が歴史をつくるものです。

勝てば官軍、負ければ賊軍ってやつです。

容疑者の起こした事件は、今の日本国内での法律に照らして言えば、もちろん犯罪行為です。

でも、容疑者の起こした事件によって、政治とカルトの癒着といった腐敗が明るみになってきたのも事実です。

容疑者がひとり、街頭演説でカルトの腐敗を訴えていたら、果たして今のように社会問題化したでしょうか?

事件が明るみになった今でさえカルトについて報道しているマスコミがごく一部である現実を鑑みると、名もなき一個人が民主的な手続きによって過ちを正すことができたのか、はなはだ疑問です。

社会が生み出した暴力

日本政府が推し進めてきた新自由主義と、それに伴う自己責任論。

これこそが、「社会から取り残される人たち」を生み出し続けています。

そして今回の銃撃事件は、日本に蔓延る自己責任論的な空気感が顕在化した一つの社会問題である気がしてなりません。

新自由主義とはすなわち

「個人や市場に対する国の関与を極力減らして自由競争に任せる」

という経済思想のことです。

国の関与を小さくする「小さな政府」を目指す思想です。

日本における新自由主義は、中曽根内閣から始まり、小泉政権下で加速しました。

国鉄がJRになったり、電電公社がNTTになったりしたように、国営企業を民営化しまくったのは、まさに新自由主義政策の一環です。

端的に言えば、国は関与しないから民間で自由に競争してね、という思想です。

ただ、自由競争と言えば聞こえはいいですが、早い話

「国に頼らないでね」「自分で責任とってね」

と言っているわけです。

日本の菅元首相が「自助共助公助」と言っていましたが、これはまさに「自助努力」が第一であり、最後にどうしようもなくなったときだけ国が救いの手を差し伸べることを示しています。

新自由主義が行き過ぎるとアメリカや日本のように社会から取り残される人が増えてしまいます。

「自由競争」によって経済成長を目指すわけですから、勝ち組と負け組が明確に生み出されます。

でも、逆に個人や市場に対する国家の関与が強くなりすぎると、北朝鮮のような独裁国家になります。

そしてこれらの、ちょうどいいバランスの取れている国として挙げられるのが、北欧諸国です。

北欧は、もちろん欧米と同じく自由主義国家ではあるけど、国民を守るために積極的に国が関与する福祉国家です。

いわゆる「大きな政府」と呼ばれるのが北欧型の国家政策です。

北欧は、手厚い社会保障制度を構築し、学生は誰でも無償で義務教育が受けられるとか、手厚い子育て支援が受けられるとか、「国が国民を守る仕組み」を構築しています。

そして結果として、幸福度ランキングでも上位に位置付けています。

日本が目指すべきは、北欧のような福祉国家なんじゃないかなぁというのが私個人の見解です。

国民が社会を諦めたり、政府への不信感が募るかるからこそ、例えば暴力的な手段で自分の望みを叶えようとする人が出てくるわけですから。

今回の事件を、単に「個人の恨み」として片付けてしまっては、今後も似たような事件が後を絶たないでしょう。

ですから、社会全体でこの問題について考えていく必要があるんだろうと思います。

コミュニティとしての宗教

今回の事件について、多くの報道で「政治と宗教」という問題で論じられがちです。

しかし個人的に、宗教とカルトを明確に区別すべきだと感じています。

まず、日本では信教の自由が認められているし、組織票という形で政治に影響力を持つ団体はなにも宗教団体だけではありません。

【関連記事】民主政治における組織票というバグに対抗する方法とは?

アメリカの大統領なんて、就任式には左手を聖書に置いて、神に誓いをたてるのが慣例になっているほどです。

そもそも、キリスト教にしても、仏教にしても、本来は人の幸福を追求するためのものです。

決して宗教のすべてが悪というわけではありません。

政治から宗教を排除するというよりも、宗教とカルトを明確に分類し、カルトだけを政治から切り離すことが重要なのです。

むしろ、宗教自体は人々の心の拠り所になりえる重要なコミュニティです。

アメリカの大手調査会社ギャラップ社や、ブリティッシュコロンビア大学によると、

「地域、家族、友達、学校、職場でコミュニティを形成できているかは、幸福を追求するうえで重要」

だと言われています。

しかし、こと日本においては、学齢期を過ぎると、新しいコミュニティを形成するのが難しい現実があります。

多くの日本人は高校や大学を卒業して社会人になると「家族」か「職場」だけが主なコミュニティになります。

が、しかし、家族や職場が自分にとって居心地の良いコミュニティでなければ、たちまち社会に居場所がなくなってしまうのが日本です。

一方、西洋の国々では、まさに宗教がコミュニティの役割を果たしていたりするわけです。

教会に行けば同じ神を信仰する人たちが集まっているのですから、孤独になることはありません。

また、教会は低所得者層や孤児など社会的立場の弱い人のセーフティーネットとしての役割も果たしてきました。

でも皆さんご存知の通り、日本は特定の宗教を信仰している人は少ないです。

ひと昔前の日本には町内会とか自治会みたいな地域コミュニティもありましたが、少子高齢化とともに衰退しつつあります。

最近じゃ見ず知らずの大人が子供に話しかけようものなら即座に通報されかねないですからね。

そりゃあ地域コミュニティは希薄にならざるをえません。

日本ではコミュニティ形成が出来ていないことを象徴するかのごとく、漫画喫茶、ヒトカラ、一人焼肉など「おひとりさま」向けのサービスが非常に充実していますよね。

孤独死なんてのも、まさに日本人が人との繋がりが希薄であることを象徴する社会問題です。

これらはまさに、コミュニティを持たない、個人主義的な日本人を象徴している事例です。

政治によって「自助」とか「自己責任」なんてものが吹聴され続けたなれの果てです。

ちなみに2022年版の世界幸福度ランキングで、日本は54位、先進国の中では最下位圏です。

もしかしたらコミュニティが形成できていないことも、日本人の幸福度が低い要因の一つなのかもしれません。

そして日本は無宗教の人が多いからこそ、心の拠り所としてのコミュニティを求め、カルトのような団体を信仰してしまうケースが多いのかもしれません。

何も信仰していないということは、心に付け入る隙があるということですから。

すでに何かしらの宗教を信仰している人にはこの世界に対するストーリーが存在するわけですから、そのストーリーを新たに書き換えることは容易ではありません。

何も信仰していない人の心に新たなストーリーを書き加えることの方が遥かに容易です。

会社には頼れない、家族にも悩みを打ち明けられない、友人も少ない。

そんな人にとっては、たとえ行きつく先がカルトであったとしても、自分の悩みを聞いてくれて、自分の存在を肯定してくれるのであれば、そこが自分の心の拠り所となってしまうのです。

【関連記事】ウェルビーイングとは?幸福を追求するうえでコミュニティ形成が重要な理由

さいごに

今回の事件によって政治とカルトの癒着という社会問題が浮き彫りになりました。

しかし、それによって「宗教」を弾圧するようなことはあってはならないと思っています。

繰り返しになりますが、日本には「個人主義」が蔓延し、コミュニティを形成することができず、社会に対して救いを求められない人があふれているのです。

宗教のような数少ないコミュニティの受け皿を消し去れば、社会を諦める日本人はさらに増えることになるでしょう。

大事なのは、違法なカルトと政治の癒着を否定すること。

そして取り残される人を一人でも減らすため、社会の居場所をつくっていくこと。

これが今、日本が向き合うべき社会課題ではないでしょうか。

私が運営するサステラコミュニティもまた、誰かにとっての居場所になったらいいなと考えています。

【関連記事】サステラコミュニティとは?持続可能な社会を目指す人たちの集まり

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この記事を書いた人

持続可能な社会の実現を目指す300人以上の生活者や企業が集まる「サステラコミュニティ」運営。生まれも育ちも神奈川県横浜市。現在は鎌倉市在住。2018年にWEBメディアの会社を起業。フォロワー9万人のInstagramを中心にSDGs、地球温暖化、エシカル消費などの情報を発信しています。

【プロフィール詳細】
https://susterra.net/ryu/

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